ヨレヨレオジサンの新米映像プロデューサー日記

66歳の新米映像プロデューサーの徒然日記

映像は新たなオピニオンリーダーになれるか? その②

出版はオピニオンリーダーの地位を失ったが、ではメディアはどうだろうか?最近は家にいることが多く、ご飯を食べるときなどテレビをよく見る。最近の傾向は、まずお笑いタレントの多いこと。お笑いタレントに独占されているとまで言える。ウワサでは台本要らず、準備も要らず、低コストで番組を作れるから重宝しているとのこと。年寄りの私は、お笑いタレントには社会を論評して欲しくない。お笑いに専念して欲しい。お笑いだか、真面目な社会評論なのか判別出来ず、何事もお笑いにされたくないと思うのだ。またお笑いタレントの高収入に惹かれて、お笑いタレントを目指す若者が増えているようだ。あと、韓国や中国のドラマが多すぎること。特に韓国ドラマ。辟易する。オリジナル企画が無理なら、番組枠を返上すればいいのにと思う。既得権益だからと放送枠にしがみつき面白くもない番組を流されるのはかなわない。あと、テレビショッピング。これってテレビの仕事?だからネットに負けるのだと納得してしまう。ニュースも面白くない。少し話題のニュースがあると、ほぼ同じ内容のニュースをほとんどの局で流す。これなら1局で事足りる。複数局は要らない。かつ忖度ニュースオンパレード。あるいはおじけずいて、ズバリと政治の核心に切り込んで行けない。テレビの終焉は近いと感じる。

映像は新たなオピニオンリーダーになれるか? その①

映像がオピニオンリーダーになれるかを考える前に、かつてオピニオンリーダーだった出版を取り上げてみたい。いまは斜陽産業の最たる業界。見る影もない。かくいう私も20年ほど前にサラリーマンを辞めて一人出版社を起業した。自費出版ではない。あくまでも出版社起業。自分で書いて、本にして、売る。他人の本も出した。結果は芳しくなく、今でも売れずに山のように残った本を見て、往時を思い出す。また、最初に書いた社会評論の原稿を知り合いの出版社の人に見せたら、私の原稿は社会への恨み辛みが満載で、怨念のようなものが乗り移って来そうだと言われて苦笑したのも思い出す。話を戻そう。出版業界はさまざまな問題を放置して、根本治療を怠ったせいでいまがある。販売代理店の問題は大きい。その失敗のつけを良本とは言えない本を年間10万冊近く出して返品の山を築く流れを止めなかった。また何十万部も売れる本はおかしいと思うが、そればかり狙っていた。なんだか、負け続けるギャンブラーが、大穴ばかり狙って文無しになるのとそっくりだ。そうして、かつてオピニオンリーダーだった地位を完全に失ってしまった。同時に、国民も、本を通して社会を考え、文化を考える場を失ってしまった。わずかに残る大逆転劇の可能性をわずかな期待で待つとしよう。失われた出版文化。

現代の業病---孤独

世界的に蔓延する現代の業病は孤独だと思う。サラリーマンを辞めると、現役時代はとても厄介だと思っていた人間関係が急に懐かしくなることがある。また仕事関係の人間関係も掌返しのように一挙に消滅してやるせない。外部の人間と接触しなくなる日が続くと、ふと、いま孤立しているのかなと感じることがある。加齢による身心の老化も寂寥感を呼ぶ。さらに歳を重ねれば、人間関係はさらに減少して行く。そうした未来を考えると孤独感が加速する。しかし、こうした孤独感は老年だけのものではないのが現代なのだろう。若い世代も、現役世代も、原因はそれぞれ別だが孤独が溢れている。問題なのはこの孤独の解消方法が見つからないことだ。いったいどうしたら解決するのか?そうしたテーマをいつか取り上げてみたいと思う。

第二の人生という言葉が大嫌い!

私にとって、サラリーマンからの卒業以降の人生は第二の人生ではありません。生まれてから学生時代までの人生の修行時代。次は働く時代。働く時代は、働きながらほんとうに自分がやりたいことを探るプロセスでもありました。その2つの時代を経ての人生に第二の人生という言葉は似つかわしくない。むしろ本物の人生と名付けています。修行時代や働く時代に比べたら、はるかに自由な時代なのに、その自由を思い切り活用して、自分がやりたいことをどんどん追求していかないというのは道理にあいません。働く時代はそのための準備でもあったはずです。それをやらないというのは、自分の人生に対する自分の冒涜だとまで思います。だから!第二の人生という言葉を失くしていかなければならないと思うのです。

異端を許容しない日本は延命出来るか?

あらゆる生物は内部に、常に、一定割合の「異端」を抱え込んでいる。環境激変の折には、「異端」以外がすべて死滅しても、「異端」の一部でも生き延びられるように、あらかじめ組み込まれた仕組みなのだろう。世界はいま激変、激動の時代。前記の生物の生き残り戦略に鑑みると、日本は真逆の方向に進んでいると断言できる。明らかな「異端」排除。「異端」を忌み嫌い、避け、排除しようとし、逆に、根拠なく大勢が進む方向につき従う。それはヒステリックに感じるほどだ。さらに悪いことに、日本の「異端」以外は、いまの激変、激動に対応できているかといえば、まったくズレている。この国だけが突出してズレている。このままでは絶滅リスクが拡大して行くだけ。果たして、絶滅リスクを払拭出来るのか、出来ずに絶滅にまっしぐらに進んでいくのか、誇張なしに、これからの日本は分岐点に立っていると思う。

この国が大きく変わるのは次の次の世代か?

いま、この国にたくさんの課題があるからすぐに変えて欲しいと願うのは人情だから分かる。でもそんなに早くは変わらないだろう。だって、変えようとしない人たちがいまの世代で、彼らがバトンタッチしようとしている次の世代の人たちも大きく変えないだろう。大きく変えようとする人を後継者には選ばないからだ。マイナーチェンジしかやらない。だから、大きく変わるとすれば、早くても次の次の世代。つまり数十年はかかるということになる。冷静になって考えれば分かることだ。残念ながら。それまではガマンするしかない。あるいは、何をどう変えるかを訴え続けていくしかない。焦れてしまい、慌てて変えると、改悪が待っていますので、改悪にならないように注意しなければなりませんよ!

日本にもハカを創りたい!

ラグビーワールドカップで惜しくも優勝出来なかったニュージーランドチームのハカのひとつのカマテは人を奮い立たせる。

 

私は死ぬ!私は死ぬ!

私は生きる!私は生きる!

   反復

見よ!この勇気ある者を。

この毛深い男が、太陽を呼び、輝かせる!

一歩上へ!さらに一歩上へ!

一歩上へ!さらに一歩上へ!

太陽は輝く!

 

シンプルだが力強い。

最近は、ニュージーランド国内で、このハカをことあるごとに共有する機会が増えたという。

元気を失った日本でも必要ではないか?

歴史の掘り起こしと日本のハカプロデュースはどうだろうか?