映像プロデューサーは調整役だが強引さが必要
映像の世界に足を踏み入れて感じたのは、みな強烈な個性の持ち主だということ。言い換えると、かなり変わった人もいるということ。映像プロデューサーは基本的に調整役だが、足して合わせて調整するようなことは難しいし、それをやってもつまらない結果が出現する。どうすればいいか?自分で、自分が目指す方向に引っ張っていくのがいい。あるときは強引に。目立たぬ調整役では成り立たないのだ。
小資本映画と映像
ネットフリックスも巨大資本を投入した映画を作るようだ。ハリウッドはずっとそうだった。日本の映画はそこまではいかない。中資本かな?こうなると、個人の出る幕はないと一見すると感じる。でも、そうだろうか?小資本でもいい映画、映像は作れると思う。「カメラを止めるな」はひとつの試みだとは思う。私の方向性とは違うが。また、最新の技術も大分低コストになった。したがって、小資本映画、映像でも最新の技術を使って、さまざまな試みが可能だ。そうしたものに挑戦してみたい。
歳をとったら見えること、そして失うもの
最近、目がよく見えなくなる。焦点がすぐ調整出来ない。また体力は当然落ちる。ひどいものだ。諦めるしかない。頭も物忘れが加速している。この先、何もかも忘れてしまうのではないかと少々不安になる。でも悲観してはいない。仕方ないと諦めがつく。他方、あたりの状況とか社会とか歴史とかはよく見えるようになった。若いときの暴力的なエネルギーがなくなった分、景色が透き通って見えるからかもしれない。それを枯れたとも言うのか?人の欲望、集団の欲望なんかも、以前よりずっと見えるようになった。そうなると面白いね。創作意欲はかえって増してきた。ムダなエネルギーを使わないから、集中出来るのかもしれない。歳をとって悪いことばかりじゃない。
映像は新たなオピニオンリーダーになれるか? その③
次は新聞。思い出す話がある。数年前、通勤途中に聞いていたラジオのパーソナリティが、知り合いの若い新聞記者から「世論は自分たちが作る」と告げられ唖然としたと喋っていた。何という思い上がりだろう。新聞読者の負託を受けての新聞報道なのに、いつの間にか、自分の立場を忘れ、子供のような万能感に満ちての発言。他方、スクープ報道による自分自身のリスクに怖気付き、忖度ニュースばかり流すのはどう言い訳するのか?新聞記者の仕事は、報道しなければならないニュースを報道しないことが一番の仕事という話も聞こえてきてガッカリする。報道の使命を忘れた新聞はいただけない。すべてがそうだと決めつけてはいけないが、最近の新聞記事を見ると、明らかに政治的リスクを回避しているなと思う。
映像は新たなオピニオンリーダーになれるか? その②
出版はオピニオンリーダーの地位を失ったが、ではメディアはどうだろうか?最近は家にいることが多く、ご飯を食べるときなどテレビをよく見る。最近の傾向は、まずお笑いタレントの多いこと。お笑いタレントに独占されているとまで言える。ウワサでは台本要らず、準備も要らず、低コストで番組を作れるから重宝しているとのこと。年寄りの私は、お笑いタレントには社会を論評して欲しくない。お笑いに専念して欲しい。お笑いだか、真面目な社会評論なのか判別出来ず、何事もお笑いにされたくないと思うのだ。またお笑いタレントの高収入に惹かれて、お笑いタレントを目指す若者が増えているようだ。あと、韓国や中国のドラマが多すぎること。特に韓国ドラマ。辟易する。オリジナル企画が無理なら、番組枠を返上すればいいのにと思う。既得権益だからと放送枠にしがみつき面白くもない番組を流されるのはかなわない。あと、テレビショッピング。これってテレビの仕事?だからネットに負けるのだと納得してしまう。ニュースも面白くない。少し話題のニュースがあると、ほぼ同じ内容のニュースをほとんどの局で流す。これなら1局で事足りる。複数局は要らない。かつ忖度ニュースオンパレード。あるいはおじけずいて、ズバリと政治の核心に切り込んで行けない。テレビの終焉は近いと感じる。